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zoom RSS ジプシーを巡る旅(ザルギャルにまつわるあれこれ)

<<   作成日時 : 2008/04/19 13:54   >>

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画像イランでの「ジプシーを巡る旅」。具体的な旅のマップを描き始める前に、旅に出る前の出来事について少しだけ書いておきたいと思います。
旅そのものを描いて行った方が、楽しく興味深い日記になることは解っているのですが、旅の記述を始める前段階として、今回書くことは最低限必要な予備知識を含む内容だと思うのです。

さて先日も書いたとおり、約2年前に中東のジプシーのリーダーであるヌスラット・ザルギャルとの邂逅をイランにて果たされた関口さんですが、今回は旅の案内人となる人物を探すべく、少し早くから行動を起こされていました。再三書いてきたように、ジプシーの集落を巡るには、他でもないジプシーの助けが必要となります。特に、情報が著しく制限されたイランという国では、手助けをしてくれるジプシーの存在は、貴重な情報を得る上でも非常に大きな助けとなります。関口さんは今回、ジプシー研究家としての人脈を使われ、ヌスラットの従弟のアリレザの存在に行き当たりました。彼は前回も書いたとおり、世界ロマ会議で重要な発言をし、ビジネスの傍らジプシー研究を進めるインテリ系の「ロマ」だということ。何より、ジプシーであるという事実自体が、調査に対して熱心で前向きな姿勢を保つ理由となるだろうという考えも、関口さんがアリレザを案内人として選ばれた理由でした。

こんなわけで、トルコでの旅に入る約一ヶ月前、私の下に、関口さんを通してアリレザ・ザルギャルの存在が知らされました。
何度かのメールのやりとりの後、2月のある日、私は初めてテヘランに住むアリレザの下を訪ねます。

初めてアリレザに逢った時に受けた印象は、一般にいるイラン人とさほど違わないようにも思えるけれども、風貌に関してはヨーロッパ的な特徴を多く備えているということでしした。
イランの国土は歴史を通して常に、多用な民族が行き交い、入り乱れ、そしてペルシャ語が公用語である現在でさえも、多くの民族・言語から成る多民族国家であることに変わりはないので、人々の風貌も様々であることはごくごく自然なことです。実際、ヨーロッパ人と見分けが付かないような人も多く存在します。
アリレザに関しても、やはり肌の色は多数派の黄褐色の肌に比べ随分白いし、何より目の色がかなり碧いという点が特徴でしょうか。
実際ザルギャル一族が、ヨーロッパ(具体的にはルーマニア)からトルコを通り過去にイランにやってきたロマであることは、ほぼ確実なようです。このことは以前の関口さんの調査結果からもはっきりしていることですし(『アラブ・ミュージック その深遠なる魅力に迫る』にも記されています)、イランの様々な歴史書・文献にも、彼らの辿った道筋についての明確な記述があるようです。

アリレザは、初めて会う私の前で、ザルギャル家の歴史、ロマ民族全般について、様々な文献を手に熱く語り始めました。それから、自らのルーツに関心を持ったきっかけ、自分がロマであるということへの目覚めについても。そのきっかけは勿論、周囲と違う自らの「おかしな」言語、だったわけです。そこで、彼らが使うロマニー語についての知識もほんの少しだけ伝授してもらいました。サンスクリットを過去に学んでいた私には、イランのジプシーたちの間で今も使われるロマニー語の形が、どれほどペルシャ語の影響を受けているのかということにも、とても興味があったのです。実際には、もともと姉妹言語であるサンスクリットとペルシャ語双方に共通する単語については、イランで使われるロマニー語にもその形がそのまま受け継がれているパターンが多いという印象を受けました。
画像

イランではジプシーのことを「コーリー」と呼びます。それがジプシー全体を差す総称。そして、もちろんザルギャルも他のイラン人からしたら「コーリー」なわけです。しかし一口に「コーリー」と言っても、勿論のこと様々なグループが存在します。そして、すごいことにイランでは国内ほぼ全土に渡って、様々な州に様々なコーリーが散らばって住んでいることが、アリレザの話と文献の記述から解りました。それにはイランという国が現在の形に成り立って行った経緯や、歴史上様々な民族がこの地を支配した事実が、当然のことながら背景としてあるわけです。国家というものが形成されて行く過程で歴史の波に翻弄されてきたジプシーたちの姿が、イラン内部だけを見ても随分鮮明に浮かび上がってくるのです。幸いなことにイラン人(くどいですが、本当は「イラン人」という言い方には語弊があります)は、歴史を通して多くの文献を残してきた人々。この日のアリレザの話を聞いているだけでも、今まで聞いたこともないような話にたくさん行き当たり、湧き上がってくる興奮を抑えることができませんでした。
ザルギャル一族だけを取ってみても、その歴史は壮大なるドラマに彩られています。それは、大袈裟に言うと、新たなイラン史を紐解くことにも繋がるような気がしてしまいました。そして逆に言えば、イラン史を深く知ることは、ひょっとしたらジプシーの歴史を知る上でもとても大きなきっかけになるのではないか、そんな期待を思わず抱いてしまうような、そんな話へと発展していったのです。具体的にここに書けることは限られてしまいますが、ザルギャル一族のイランへの流入は、トルコ系民族によるイランの支配・統一と大きく関係していたことのみは、この後の旅の記録を記す上で必要な素地となりますので、述べておきたいと思います。そして、その歴史上の事実は、彼ら一族内での共通言語がトルコ(アゼリー)語であることにも現れているとだけ記しておきたいと思います。実際、彼らが私に対して話し掛ける時の言語はペルシャ語でしたが、彼らの間で話す時にはトルコ語へと変化していました。
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次に、調査の対象となった地域について。
シーラーズとブーシェフルというふたつの都市が、今回調査先に選ばれたわけですが、具体的にそれぞれの地で手助けしてくれる人物も、旅の前の会合から浮かび上がってきました。
第一に、中東のジプシーのリーダーであるヌスラットが全行程同行してくれるという事実は、この段階ではとても心強かったし、シーラーズには、イランの歴史を通して散らばって行ったザルギャルの子孫たち(つまり彼らの遠い親戚)の存在があり、またブーシェフルに関しては、ブーシェフルの音楽を海外に紹介するために政府のお墨付きで働くB氏を、アリレザが紹介してくれたのです。
というわけで、2回目のアリレザとの会合には、このB氏も加わりました。
B氏自身はジプシーではありませんが、彼がマネージメントを勤めるブーシェフルの音楽グループの中に、数名ジプシー・ミュージシャンがいるということ。また彼らを連れ海外公演を行ったり、B氏自身もブーシェフルの音楽の研究を行う傍ら、楽器(ダンマーム)を演奏しているとのこと。

そして、この会合では、具体的にブーシェフルの音楽の歴史についても説明を受けました。
ブーシェフルという場所は、ペルシャ湾に面したイラン南西部の海辺の都市で、一般に「イラン」と言って想像できる街とは気候の面でも文化の面でも、一味も二味も違う場所なのです。そして、ペルシャ湾に面しているという場所柄、古くからアラブ諸国やアフリカの国々、インドなどとも関係を持ってきた土地。つまり、ロマ研究以外にも興味深い歴史的要素をたくさん抱えた街なのです。もちろん、その民族の混淆の歴史は、現存する音楽のミクスチャー性としても現れているわけです。

こういった様々なエキサイティングな情報に、旅に出る前10日間ほど私の睡眠は著しく妨げられたのでした(笑)。

さてそれでは、次回こそは旅の話を書いていきますね。

写真1:ブーシェフル旧市街に残るアラブ風邸宅にて。ミュージシャンたちの前でチョグールを演奏し、ご満悦のヌスラット(笑)
写真2:ブーシェフルの空港でミュージシャン仲間を見つけ、思わずチョグールを取り出し演奏開始。聴衆が多数集まりご満悦のヌスラット(笑)
写真3:ブーシェフルの港にて。舟遊び(?)でご満悦のヌスラット(笑)








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